10年前の今日、東日本大震災がありました。
2時46分、外に出て、サイレンとともに海の方に向かって黙祷をしました。
あの日は知的障害の女性の「今後」について担当者会議を行っていました。
その後、色々あり無我夢中でしたね。
幸いなことに私の住んでいる街は海から遠く津波の被害はありませんでした。
ただ、1ヶ月後に再び大きな地震があり、そのときにつぶれてしまった家がいくつもありました。
今日、私は偶然にもお休みです。
朝、病院に行って、髪が伸びたので美容院に行って、その後は海にでも行こうかと思ったのですが、海方面には多くの人が訪れていることと思いますから、やめました。
こちらでは、またコロナ感染者が増えてきていますから、車から降りなければ良いかもしれませんが、やはり危ないと思い行くことはやめました。
でも、テレビでは朝から晩までずっと東日本大震災のことばかりしていますから、観ればつらくなるので、買い物行ったり、バジルの種をまいたり、職場から持ち込んだ書類書きをしています。
レンタルDVDも借りてきました。
明日から11年目になります。宮城県は復興が進んでいますか?と聞かれれば・・・・「わかりません」としか答えられないでしょう。
先月28日、娘と岩手県陸前高田に行ってきました。用があるわけではなく、ただ何となくドライブに出かけ、陸前高田に入ったとき、道の駅があったので立ち寄ってみました。
建物の後ろには、防波堤に続く道が整備されており、風が冷たかったのですが、防波堤まで歩いてみました。陸前高田には震災前には「高田松原」と呼ばれる松原が広がっていましたが、震災後には松は1本だけしか残りませんでした。
当時、テレビで何度も放映されたので記憶にあるかと思いますが、「奇跡の1本松」と呼ばれるものです。
いまでも立っています。ただ、色々施されており、自力で立っているわけではありません。
風吹く寒い防波堤のうえで海を見ていたら「どちらから来ましたか?」と若い女性に声をかけられました。
「宮城県です」と答えると、その女性は「宮城県はどこにありますか?」と聞くので、「あっちです」と南のほうを指差しました。
女性は「私たちはブラジルのテレビ局のものです。話しを聞いてもいいですか」と聞いてきました。
宮城県のどこに住んでいるのか、そこは海の近くか、津波は来たのか、大震災のとき何をしていたのか、日本は立ち直りが早いように思うがどうしてか、など色々きかれたのですが、私の住んでいる街は海からは遠く、津波も襲っては来なかったので、彼女たちが聞きたかったことはお話しすることはできませんでした。
娘が「ブラジルでは私たちの話しはカットされるよ」・・・私もそう思います。
もう1度書きます。
明日から11年目です。コロナ禍のなか、どのように進んで「生きましょう」か。
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