ひとりごと
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愚痴
暑い日が続いておりますが、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。
熱中症、熱射病にはくれぐれもご注意なさってください。
ところで先月末、あたしにとってなくてはならないサイトが閉鎖してしまいました。
大変残念に思います。
そこの管理人とは「井戸端チャット」と言うところで会いまして、井戸端チャットがなくなってもなかよくさせっていただいておりました。
HANABUUはめったに客の来ないサイトでしたが、唯一その方だけが来てくださいまして、書き込みをしていただいておりました。
もちろんそのほかにも1年に1回くらい別の方の書き込みはありましたが(笑)
以前はたくさんのサイトに出入りしておりました。
最近はその閉鎖したサイトと、あと1~2箇所のみとなってしまいました。
サイトを立ち上げたときは「たくさんの人に来てもらいたい」と強く思っていたのですが、魅力のない稚拙なサイトに人は集まることはなく、当然ながら人が来ない状態が当たり前となり、そのうち張り切って更新!なんてこともしなくなりました。
最近ではビルダーの使い方さえ忘れてしまいました。これではサイト運営資格ってありませんよね^^;
そのうち、ここも閉鎖するようになるのでしょう。
って、どうやって閉鎖するんでしたっけ・・・・・
「家族」だけでも削除せねばなりませんね。
りゅうびが死んでから、もう何年も経ちますからね。
追加
東日本大震災の影響で「イエバエ」が大発生して大変困っている市や町があります。
そこで考案された手軽な蝿とりグッズ(?)があります。主婦が考案したらしいですが、紹介します。
空いたペットボトル2リットルサイズ 1本
砂糖100g
酒100cc
酢20cc
これをペットボトルに入れます。
ペットボトルのふたはしっかり閉めます。中身はよく混ぜてください。
そしてペットボトルの肩より下あたりにカッターなどで穴をあけます。
大きさは蝿より大きく、しかし大きすぎず・・・です。
あとは蝿の多い場所に置いてください。
ただし、置く場所に注意してね。臭いありますし^^b
2011/07/03(日)
09:18
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震災から2ヶ月
震災から2ヶ月以上経ちました。
復旧の兆しは見えますし、復興に向けて前に進んでいるようですが、その進み具合はカタツムリの歩みよりなお遅い歩みです。
それでも「なんとかせねば」と歯を食いしばって戦っているようです。
中には行政は当てにならぬとばかりに、それぞれの地域で立ち上がろうとしている方々もいらっしゃいます。
先日仙台で会議があり、その会議に出席なさった方の中に3月11日はミュンヘンだかモントリオールだか(オリンピックやったトコ)に行ってた方がおられました。
滞在中、テレビでは日本の津波・震災の様子をずっと流していたそうです。それ以外の自国内のニュースや諸外国のニュースはテロップで流す程度。あとはずっと日本の災害の様子ばかり放映していたとのこと。
それも日本国内ではカットしたり、ぼかしたりする映像もそのまま流していたそうです。
人々が流されていく様子など、目を覆うような光景をです。
その方が言うには「あれでは日本全土が壊滅状態になったように受け止められるし、日本全土が放射能に汚染されていると思われてもしようがない」と話しておりました。
数え切れないほど訪れた南三陸~気仙沼の今を見たいと思い、4月下旬に娘と行ってきました。
山を越え長い坂を降りていくと急に異様な光景が目に飛び込んできました。
確かにテレビでは何度も目にしておりましたが、実際に見ると言葉にできないものです。涙が流れ、言葉も出ず、ただ車を走らせました。どこがどこだかさっぱりわかりません。記憶にある建物は2つばかりありましたので、それで「ああ、間違いなく南三陸町だ」と確認することができました。4階建て、5階建てのビルは骨組みしか残っておらず、屋上にはブイが乗っており、網が下がっておりました。橋は流されたため、組み立て式の橋が自衛隊の方々の手で架けられておりましたので、ゆっくりと渡らせていただきました。見慣れたはずの町でしたが、標識も信号も目印になる建物もない状態ですから、ミスコースもしました。大きい町ではありませんので、ミスコースしてもさほど問題はありませんでしたが。
その後、南三陸町から北上して歌津と言うところに行きました。
以前は南三陸町と言う地名ではなく、志津川と言う町と歌津と言う町がありましたが、合併後、南三陸町となりました。
先ほどミスコースしたところが志津川町になり、北上して歌津に入りました。
歌津には歌津大橋と言う立派な橋が架かっておりましたが、津波で流されたため山を大きく迂回しないと北上できませんでした。山の中を迂回しているのですが、こんなところまで津波が押し寄せたのかと思うほど、入り組んだ奥まで爪あとが見られました。
また、ある場所では何もありませんでした。瓦礫すらありません。一面の泥と、巨木がわずかな根をつけた状態で横倒しになっているたけ。たしかにそこには集落があったはずでした。きれいな砂浜も漁港も商店もあったはずでした。
瓦礫の山と化したところより、むしろこちらの方がショックを受けました。
歌津を過ぎ、やっと気仙沼市に入りました。
確かに瓦礫もありましたが、それ以上に驚いたのが臭いでした。
自動車の窓は締め切っているのに、臭いがすると思い窓を開けましたら、いいようのない臭いが街中に充満しておりました。
魚の腐った臭い、重油の臭い等等・・・・・
すごい光景を見てきたのですが、上手く表現できません。
ボイランティアで行った人たちから「テレビで見るのとはまるで違う。言葉が出ない」と聞いておりましたが、本当に出ませんでした。
でもいつか人の力で元に戻すのでしょうね。
2011/05/15(日)
14:09
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東北地方太平洋沖地震【No4】
前の休みから9日後、やっと休みをもらうことができました。
この日はまずトイレットペーパーや歯磨き、シャンプーを買うためにドラッグストアに並びました。開店40分前でしたが、すでに百人ほど並んでおりました。やっと開店してもすぐに入れるわけではなく、人数制限というものがあります。どこの店でも同じでして、大き目のスーパーでは20~30くらいずつ入店させます。そして買い物が終わって出てきた人数と同じくらいの人数を次に入れるという方法ですから、なかなか遠い道のりです。やっと入店できても震災前と同じような品揃えであるはずもなく、生鮮は野菜は何とか揃っておりますが、肉・魚となりますと、超品薄です。それも「これ買うなら缶詰で良いな。」と思うものがほとんど。また、人数制限だけではなく、品数制限もあります。店によって様々ですが、例えばお1人様20品までとか、お1人様買い物カゴに一杯分だけとか、同じ品物は1家族2つまでとか。
最初に行ったドラッグストアでもトイレットペーパーはお1人2個まででしたので、娘と2つずつ購入しました。
次にモスラ家が並んだのは精米所。普段、精米所で並ぶなんてことはよほど運が悪い時だけですが、震災後は並んでしまいました。
精米が済んで、3番目にやっとスーパーに並びました。このときは私1人並んだのですが、私の前には百人以上が並んでおります。開店時間からずいぶん過ぎていますが、並んでいます。心配なのは果たしてどれだけの品物が店内に残っているだろうかということです。やっと入店できましたが、野菜・果物は思ったよりありました。魚・肉は冷凍が少々。あとは、冷蔵庫を使うような品物はほとんどありません。ハムのような加工品、牛乳や野菜ジュースのように紙パックに入っている飲み物、それから豆腐なども全くありません。
ちなみに酒は半額でした。震災でラベルが汚れたものが沢山あり、それらを「品質はかわりません。」ということで、半額で売っておりますが、いつ大きな余震がくるかわからない状況で酔ってはいられませんから、手はだしませんでした^^b
話し変わってトイレおよび生活排水についてお話します。
震災直後、県内ほとんどが停電になりました。汚水・下水の処理にはポンプを使って吸い上げてのち、処理していきますが、電気が来ないのでくみ上げることができません。おまけにポンプも壊れてしまったようで。
こうなりますと、水道がつかえるようになっても色々問題が起きてきます。水道がつかえなくても問題がありました。
そうです。水洗トイレが使えない。防災無線が停電のため流すことができないため、頼りになるのはコミュニティラヂオ放送。そのラヂオからは毎日下水を流さないようにと放送されています。
「トイレは流さないで庭や畑に穴を掘ってそこに流してください。」
んが、我が家には畑がありません。庭はコンクリートですから、穴も掘れません。
我が家は震災後からずっと水洗トイレは使っていました。断水していますが、風呂水を使って流していました。トイレには水の入ったバケツを置いておき、使用後は流しておりました。いけないこととはわかっておりますが、こればかりはどうしようもありません。
職場のトイレですが、山の中にある職場には畑も空き地もありますので、穴を掘りました。
車椅子使用のトイレにポータブルトイレを設置し、使用後は穴に捨てます。トイレの紙さまはビニール袋に入れてたまったら燃えるゴミの袋に入れておきます。焼却炉は通常営業はしておりませんでしたが、そのうちそのうち^^;
ボランティアセンターは3月27日まであり、その後は縮小してやっております。
休みも以前に戻り、土日が休めるようになりました。
4月になると、私の住んでいる市では徐々に以前のような状態になりつつありました。
全壊した家屋、壊れた道路などはまだ手付かずの状態になっておりますが、金融機関も平常通り営業再開するようになりました。
この金融機関ですが、「ゆうちょ」と「JA」は復旧が早かったです。ゆうちょなどは震災後2日くらいでATMが使えるようになりましたし、JAもATMのほかに窓口業務も意外と早く行っていました。ですが、宮城で一番大きい銀行はなかなか復旧しませんでした。
私も3月下旬から本来の業務につきました。
周りの方々から、ボランティアセンターにいた時の方が生き生きとしていたといわれました(笑)
4月に入ると、町の中を見ればまだまだ爪あとは残っていますし、テレビではいまだに毎日震災のニュースが流れております。
実際に現地にボランティアで行った人によれば、テレビで観る以上の光景がひろがり、言葉が出ないそうです。悲惨な光景とこれに臭いが混じりますし。
もとに戻りつつあった4月8日夜中、大きな余震があり、次の日は年休を取っていた私は出勤。実は3月の地震では大きく長い地震でしたが、横揺れでした。8日の余震は短いですが、縦揺れでした。我が家でも前回倒れなかったタンスが倒れました。当然ながら全市で断水と停電。今度は回復まで何日かかるか・・・・と思いきや、電気は2日目に、水道も24時間後くらいに復旧してくれましたので、助かりました。トイレも初めからちゃんと使用できました。
町の状況はといいますと、前回の地震で打撃を受けた建物は倒壊しておりましたし、道路も以前より悪化しております。
いつまで余震が続くのでしょうね。
長々と書いて来ました。最後まで読んでくださったこと、感謝します。
でも書きたいことがもっともっとありますので、今後もぽつりぽつりと書いて行きます。
2011/04/16(土)
18:50
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東北地方太平洋沖地震【No3】
本来なら休日ですが、震災となれば土日祝日は関係がなくなってしまうのがあたしの職場と言うことで寒い中出勤しました。町の中は相当混み合っているだろうと思い、遠回りして出勤しました。信号は当然ながら全くついてはいませんでした。また亀裂が入っているところ、陥没しているところがあちらこちらにありましたので、スピードは出せませんでした。
少々苦労しながら職場に着きましたが、金融機関が動いていないため、私は本来の業務から離れ災害ボランティアセンターに組み込まれました。
業務内容については前日に役割分担しておりましたので、あたしも一応自分の持ち場につきました。そのうち、ポツリポツリとボランティア希望の方々が見え、登録していただくと、別室にて待機していただきました。
ボランティアに何をしてもらうかといいますと、震災でめちゃめちゃになった「生活する場所」のお片づけをしてもらいます。ガラスを取り除いたり、倒れた食器棚を起こしたりして、必要最小限度の生活の場を確保してもらいます。中には住居スペースと店舗がつながっていて、店舗も片付けてほしいと依頼がありますが、ピシっとお断りします。
んで、あたしの業務はといいますと、現場へ赴くボランティアにお片づけに必要な道具等を人数分お渡しします。雑巾だとか、バケツだとか、マスクだとか、軍手だとか。
あたしが土日なく仕事しておりますし、娘も仕事があったりしますから、電気が使えず、会社が休みになっている息子が買出し担当になってしまいました。お金を多めに渡し何でも良いので生活に必要なものを買ってきてもらいます。でもどこのスーパーも開いているというわけではないので、開いているスーパーに客が集中し、開店前から長蛇の列ができます。買える数も決められており、また店の中で自由に買い物ができるのではなく、始めのうちはほとんどの店で店頭販売でした。
そんな中で息子は何かしら買ってきてくれました。
また、ニュースでもご覧になったかと思いますが、ガソリン購入するために並ぶ異常な車列。
どこのスタンドでも買えるわけではないし、在庫もないし、タンクローリーがなかなか来ないわけでして、1店舗で何百台もの車が並ぶんです。それでも買えればラッキー。何時間も並んで買えない人もいます。
始めのうちは4~5時間でしたが、だんだん長くなり、息子があたしの車にガソリンを入れたときは17時間待ちました。前日の夜中に毛布を持って出かけます。タンクローリーが午前中に来るとは限らないため、待つしかありません。その時は15時半に来たようですから、17時間という異常な待ち時間になりました。
また、長蛇の車列になるため、町中の渋滞だけではなく、緊急車両にガソリンが入らないという事態も起こってきました。そこで、いくつかのスタンドでは「緊急車両専用」としたところもありました。また、消防車・救急車・災害物資運搬車両の他に、行政の車やあたしの職場もそのようなスタンドで入れてもらうことができました。ただし、満タンではありません。一般客用のスタンドも満タンは入れません。10リットルか、20リットルがせいぜい。もしくは2,000円分か3,000円分。また、値段も震災前は1リットル145円でしたが、震災後は155円から、ぼったくるスタンドになると220円。緊急車両専用のスタンドでさえ、170円も請求します。
そうそう、高いのはガソリンだけではありません。普段はあまり客の来ないような小さなお店ではこのときとばかり、高値をつけていました。
キャベツ1個500円、大根1本380円、ネギ3本束880円とか。しかたなく買った人もいたようです。
震災後3日目だったと思います。息子の友人がポリタンクに半分ほど入った灯油と、自分の母親が亡くなった時に買った蝋燭10数本を持ってきてくれました。我が家の蝋燭がまもなく品切れしそうだったのでとても助かりました。お店にも売ってはいませんし。
じつは蝋燭と電池は震災後すぐに店頭から消えてしまいました。
みなさん、蝋燭・電池(特に単1、単2)は必需品です。買い置きしておきましょう。
あとはチャッカマンもしくは100円ライターね^^b
ところでライフラインですが、我が家では4日目にはほとんど使えるようになりました。
早かったですね。病院、役場、避難所の次辺りに電気が使えました。
職場の人たちの中にはガスも電気も水道も使えない人がおりましたのに。
また長くなってしまった・・・・・【つづく】で良いですか(〃∇〃)
2011/04/10(日)
00:43
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東北地方太平洋沖地震【No2】
続き・・・
雪が降りしきる中、娘が買ってきたのは350ml入りペットボトルのジュース数本といくつかのゼリーやチョコレート、ケーキ等でした。カップラーメンやインスタントラーメン、パンはすでに完売しており、主食になるものはほとんどなかったとのこと。それでも「あっただけマシ」だと思いました。
また、停電なのでファンヒーターが使えないため、物置から10年前に子供たちに焼き芋を作るためだけに購入していた石油ストーブを出しました。10年も使っていなかったので、点火するかどうか不安でしたが点きました。点き始めは結構臭かったですが^^;
また、すぐラヂオを点けましたが、そのチャンネルはどこかのテレビ番組をそのまま流しておりましたので「ご覧下さい。津波が仙台空港に押し寄せてきております。」と話していますが、私は観ることができずまわりでどのようなことが起こっているのか全くわかりません。
自宅に戻る途中、道は陥没し電柱は傾き、電線は垂れ下がり通行できない状態になっていますが、それ以外のところに関しては現時点では知る術がありません。
ちなみに電話もかけられません。
さらっと片付けると私は再び職場へ戻り、あとのことは息子と娘に頼みました。
職場へ戻る途中、信号は全て消えているので、渋滞が起きており、私は大きく迂回し、田んぼの中を走るじゃり路を進みました。
職場に戻るとすぐに「災害ボランティアセンター」を立ち上げると言うことで、いつニーズが来てもいいように準備が始まりました。準備を終え、自宅への帰路に就きましたが、途中開いているコンビニがあり、すぐに入りました。店の中は真っ暗でしたが、道路沿いですから、走る車のライトで幾分灯りはありました。その中で「何か・・・」と探しました。ラッキーなことに惣菜が入荷したところでしたので、幾つかのサンドイッチと2つのおにぎりをゲット!し、レジへ並びました。カップラーメンも1個本来の場所とは違うところにあったので、買われないですんだようで、1個ゲット。停電しているため、レジは電卓で計算しているため、入店してからレジ通過まで1時間ほどかかったでしょうか。
並んでいるとき、パニック映画を観ているような気になりました。直面しているのに他人事のような感じになっていました。
自宅へ戻るとやはり真っ暗でしたが、息子がインスタントラーメンを作っておりましたので、出来上がるまで私は記憶を頼りに蝋燭と懐中電灯を探し、何とか見つけることが出来ました。余震は相変わらず続き、大きな余震が来るたびにストーブを消し、ラヂオを聞きながら、息子の作った具のないラーメンを食べました。
暖かくておいしかったです。また、ストーブもそれなりにずっとつけていると暖かくなるもので、意外と役に立ちました。
蝋燭の灯りで寝るスペースを作ります。停電なので掃除機が使えず食器の破片を取ることはできないため、大きいものだけを手で取り除いたあと、こたつの敷き布団を上からかぶせて万が一踏んでも怪我しないようにしておきました。幸いなことに破片は部屋中にあるわけではなかったので、一箇所は布団を、もう一箇所は座布団を2枚敷いておきました。
水は出ない、電気は出ない。使えるのはガスだけ。でもガスが出るたけありがたかった。非常用の水があるので、何かしら暖かいものが食べられますから。米もあるし。
ラヂオではライフラインの復旧はいつになるかわからないと言っております。
何もすることがないので、7時半ころには横になりました。ただ狭いので、足を伸ばすことはできません。
いつもなら、子供たちは2階にいるのですが、この日は下でわずかに作ったスペースに私と息子、普段、私が寝ている場所に娘が布団や毛布に包まるようにして、横になりました。
そうそう、我が家にはもう1匹、家族がおりました。私が帰ったとき、リクソンのガラスケースの中にはくしゃくしゃにされた新聞紙がたくさん入っており、少しでも寒さをしのげるようにと息子が突っ込んでいたようでした。
もちろん小さいながらストーブは点けておりますが、大きい余震がくれば危ないですから消さねばなりませんが、彼のことを考えれば消すわけにはいきません。
ですから、ストーブは点けて、余震がくれば消して、おさまったら点けて・・・・・
一晩中しておりました。
・・・to be continued
2011/03/26(土)
15:39
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東北地方太平洋沖地震【No1】
平成23年3月9日、昼少し前、私は公用車で移動していました。風のある日でした。
私の前にはデイサービスの送迎用ワゴン車が走っています。その車が道路脇にゆっくり停車します。私は「何で人家のない場所で止まるんだ?」と不思議に思いながら、そのワゴン車の脇を抜けていきました。その少し前、運転する車が若干センターライン側によって行き、ハンドルもちょっと重い感じになりましたので、「風で車が流されたか」と思っておりました。
隣町の支所に到着したとたん、「モスラさん、地震大丈夫でしたか?ずいぶん大きかったですよね」
『あ、ワゴン車が急に止まったのはそのせいだったのね?気付かなかった・・・』
事務所に戻ると利用者宅にいた相方が「すごい揺れた。怖かった。」と話しています。
その利用者宅は確かに【丈夫ではなさそうなおうち】でしたので、さぞ怖かったことだろうと思いました。相方は私に「あの地震を感じなかったモスラさんは幸せだ。」とのこと。この時は震度5弱でした。
その2日後、平成23年3月11日14時46分 私は町の保健センターで開かれたケア会議に出席していました。
1人暮らしの知的障害の女性が、4月からケアホームに入所することになり、今後の支援の方向性等を決めておりました。
ケアホームとは日中活動(仕事)をしている精神障害者・知的障害者の方で、地域において自立した日常生活を営む上で、食事や入浴等の介護や日常生活上の支援を必要とし、障害程度区分2以上である方に対して介護・支援を実施する施設です。
ケア会議が始まって1時間ほど過ぎた頃、結構な強さの揺れが始まりました。主役である知的障害の女性は地震が大変苦手で、2日前の地震があった日は心細いということでグループホームに特別非難をしていました。そこでわたしはじめ数人(女性だけ)が彼女をかばうように団子状態になり、揺れがおさまるのを待っていました。そして揺れは若干小さくなりこのままおさまるかと思われた瞬間、経験したことのないような揺れが襲ってきました。あちこちでガラスが割れる音、食器が落ちる音がする中で彼女の悲鳴が演出になり恐怖をあおってくれていました。「やだー、怖い、怖い、おかあさーん!助けておかあさーん。」
(彼女のおかあさんは昨年8月に亡くなっております)
会議に出席したいた男性3人のうち1人はテーブルの下に潜り込み、もう1人はすばやく外に出て、あとの1人は福祉事務所の生活保護担当だったと思いますが、その辺にいたような気がします。
これまで経験したことがないほど強く長い揺れが続きましたが、やっとおさまりました。
地震が始まる前にはだいたいのことが決められておりましたので、ケアマネージャーやケアホームの責任者にいくつか確認したのち、私は職場に戻ることにしました。
建物から出て車に乗る間にも容赦なく余震は襲ってきますし、車を動かしてからも大きな揺れがあり、道路脇に車を寄せて揺れがおさまるのを待ちました。
反対車線を見ると見知らぬ中年女性が同じように車を道路脇に止めており、思わず目を合わせると目と目で「大変なことだわ、怖いわね。」と語っております。揺れがおさまるとどちらからともなく、「それじゃあ、お互いに気をつけて。」と目と口パクで挨拶をして車を発進させました。
ようやく職場に就くと相方が「この間の私の気持ちがわかっただろう」と言っております。
部屋は暗い。電気ついてないんですね。寒いのに暖房がない。送電止まったし(滅)
被害は大変なものらしく、局長から職員全員一旦自宅へ戻り「確認してこい。」とのことでしたから、帰ることにしました。
私がまっさきに浮かんだことは「りくそんのガラスケース、こなごなになっているな・・・掃除、大変だろうな」でした。
自宅へ帰る道路はあちこちひび割れ、段差ができており、若干の渋滞が出来ておりました。また、電柱は傾き、電線は垂れ下がり、無事自宅へ戻ることができるのか不安でした。
自宅へ戻ると、りくそんのガラスケースは無事でしたが、別の食器棚が倒れており、あたりには砕けた食器が散乱しております。朝、しっかり閉めていったサッシ戸は錠が外れ開いており、よくぞりくそんが逃げなかったと安心しました・・・が、他を見るとげんなりしてしまいました。呆然としていたとき、息子が帰ってきましたので、まず食器棚を外へ運び出し、スリッパを履き、片付けを始めました。娘も帰ってきましたので、すぐに言いつけました。「コンビニに行って、何でもいいから食べるもの、買っておいで。パニックになる。」
・・・To be continued
2011/03/23(水)
21:34
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